カテゴリー: 各ポイントをご紹介

  • インド各地の情報

    インド各地の情報

    インド各地の情報

    デリー

    インドの首都デリーではオールドデリーとニューデリーの2つの異なった趣がみられます。
    その対照的な町並みはとても魅力的です。町の成立は神話時代まで遡り、歴史の深さを感じることができます。主な観光スポットは第一次大戦の戦いに散った将兵たちを悼むインド門や世界遺産でもあるムガール様式の庭園霊廟を完成したフマユーン廟、インド一の高さを誇る石塔クトゥブ・ミナール、レッドフォート別名ラールキラー(赤い城)とよばれる赤砂岩の王城、マハトマ・ガンディーをしのぶ聖地公園ラージ・ガート、2万5000人を収容するインドで最大のモスク、ジャーミ・マスジットなど、見どころが満載です。

    アグラ

    16~17世紀に栄華を誇ったアグラはインド観光のハイライト、世界遺産であり世界最大級の大理石建造物、タージマ・ハール廟がある町として有名です。このタージマ・ハールはムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妻ムムターズの死を悼み22年間をかけて完成させた大理石廟です。そのほかにムガール文化が花開いた赤い石積みの城壁に囲まれたアグラ城も観光ポイントにあげられます。デリーから南へ約200キロの所に位置しています。

    ジャイプール

    砂漠の国、あるいはローズピンクシティとよばれるラジャスタン州の首都ジャイプール。多くのたてものがローズピンクの砂岩でできています。ひときわ目立つピラッミッド型の五層からなる風の宮殿や星好きの王様が建てた18世紀の観測儀ジャンタル・マンタル天文台が有名です。郊外の丘にそびえ立つアンベール城は18世紀ごろまでは都として機能していました。鏡宮殿とよばれるシーシュマハルなど見応えがあります。徒歩または象のタクシーで入口まで登ります。強固な砦の中にも幾何学的な庭園や美しい宮殿がみられます。

    ファティプールシクリ

    アグラ西郊の岩山に残る廃都、世界遺産ファティプールシクリ。聖者の予言からアクバル大帝が男子が授かり、それを記念して遷都された都。しかし、水不足や猛暑などの理由からわずか十余年で廃都となってしまった王都。現在も傷んだところも少なくそのままの姿が残っています。

    ムンバイ(ボンベイ)

    インド最大の国際商業都市として栄え活気に満ちあふれた近代都市です。おもな見どころは女王の首飾りにたとえられた海岸(マリンドライブ)やムンバイ湾に面して建つインド門など。格調高い庭園やその様式など西洋の歴史が色濃くのこる近代都市としての顔、また昔からのスラム街など入り混じった2つの顔をのぞかせます。ムンバイ湾には世界遺産エレファンタ島の石窟寺院があります。

    エローラ・アジャンタ

    デカン高原に信仰のエネルギーを今に伝える、のみと槌で掘り出した寺院群のあるエローラ石窟寺院群。自然の岩山を掘りぬいて作り上げた石窟群のスケールは見る者を圧倒します。
    アジャンタは褐色のワーゴラー川の湾曲に沿って仏教石窟院が並んでいます。インドが誇る仏教遺産として、有名な持蓮花菩薩の壁画などや見事な壁画や仏教美術の質の高さで注目をされています。いずれも世界遺産になっています。

    ベナレス

    インド最大の聖地とよばれるベナレス。そのベナレスでもっとも有名なものは大いなるガンジス河での沐浴です。早朝の沐浴の風景を見に訪れる観光客は年間100万人を超えます。聖なる河ガンジス河で沐浴をすることにより現世での罪をすべて洗い流すと信じている人々の真摯な祈りの姿がそこにはあります。ほとりにはいまも受け継がれているヒンディー教の聖域があります。1トン近い純金で覆われた黄金寺院(ヴィシュワナート寺院)、モンキーテンプルの名で知られるドゥルガ寺院など。近郊には、釈迦が初めて説法をとなえた聖地、サルナートがあります。

    ウダイプール

    人口30万人の町、ウダイプール。マハーラーナー・ウダイ・スィングの時代にムガール帝国の攻撃から守るために戦術的に有利なこの地に城を築き、ウダイプールの都が建設されました。歴代藩王(マハラジャ)により山間に川をせきとめ、人工的に造られた湖とその王城がみごとに調和した閉静なたたずまいの美しい湖の町として今もその景観を保っています。ピチョーラ湖には世界的に有名なレイクパレスが優美な姿で浮かんでいます。

    カジュラホ

    コダール川の畔にカジュラホ村があります。14世紀の間に85にのぼる寺院が建立されました。東群、西群などに分けられ、どの寺院も素晴らしい建築様式を誇ります。現在22寺院が残っています。壁面などには官能的な数千にものぼる神々や天女像やミトゥナ像が彫刻されており、驚嘆に値することでしょう。

    コルカタ(カルカッタ)

    20世紀の初めにイギリスのインド領の首都として栄えた街コルカタ。コルカタの歴史はデリーや他の都市にくらべれば浅いものですが、独立後も東インド商業圏の中心であり、さまざまな地方の特産物などを手に入れることができます。特にレザー製のサンダルやバッグ、シルク製品は豊富です。

    パトナー

    パトナーは仏跡をめぐるナーランダー、ラージギール、そしてブッダガヤーを目指す旅の起点ともなる町です。紀元前5世紀にマガダ国の首都とするため建造されたパータリプートラがこの町の前身。紀元前3世紀には仏教公布のために各地に石柱を立てたアショカ王の都もここにありました。

    ナーランダー

    パトナーの南東94㎞の地。ナーランダーとは『蓮を授かる場所』という意味を持つ小さな村です。5世紀から12世紀の間、世界最古の仏教大学が置かれ、インドのみならず周辺の仏教国から留学僧がやってきていた国際的な大学でありました。今では田園風景の中に赤茶色の遺跡が静かに残っています。

    ラージギール

    紀元前6世紀ごろ栄えたマガダ国の首都。ブッダもたびたびこの町を訪れ、瞑想を行ったり、弟子に法を説いていたといわれています。ブッダに深く帰依していたビンビサーラ王が寄進した竹林精舎や晩年、弟子たちに教えを説いたといわれ霊鷲山など、ブッダの軌跡の多く残る場所です。

    ブッダガヤ

    インドとネパールの国境周辺に位置し、シャーキャ(釈迦)族の王子として生まれたゴーダマ・シッダールタのちのブッダは29歳で出家をし、6年間の苦行の後、セーナー村にたどり着き、村の娘スジャータより
    ミルク粥を馳走になりました。そして、近くの菩提樹で瞑想をはじめ、悟りをひらいた場所がブッダガヤ。名高い場所であり、世界中から僧侶や信者が今もなお訪れてます。

  • デリー 市内観光訪問箇所

    デリー 市内観光訪問箇所

    デリー 市内観光訪問箇所

    デリー

    ニューデリー

    イギリスがつくった近代的な町で、インドの首都。
    1911年にカルカッタからデリーにイギリス占領地の首都として移され、イギリス人建築家ラチェンズによりニューデリーの建設が開始されました。
    完成したのは1931年です。

    オールドデリー

    300年前ムガル王朝第5代皇帝シャー・ジャハーンが城壁で囲んだ街。

    ラール・キラー

    ラール・キラー

    ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンはアグラからデリーに都を戻し、新たに自らの名を冠した都城シャー・ジャハーナーパドを造営しました。
    これが現在のオールドデリーでその中心にラール・キラー(レッド・フォート「赤い碧」の意味)は1639~48年に建設されました。
    その名のとおり、赤い砂岩で築かれた堂々たる赤いお城です。

    ラージ・ガート

    ラージ・ガート

    ラージ・ガートはインド独立運動を導いたマハトマ・ガンディーがなくなった翌日、ヒンドゥーの作法に従って火葬に付された場所です。
    遺灰は彼が独立を説いて歩き回ったようにインド各地の河に流されました。
    ここには板や遺骨は納められてはいませんが、火葬の場所に黒い大理石も安置され、カンディーの最後の言葉「ヘ―・ラーム(おお、神よ!)が刻まれています。
    石の両脇にある募金箱に集まったものはガンディーが生涯その解放を訴えたハリジャン(カーストの最底辺で差別されてきた人たち)のために使われています。
    周囲は公園に整備され、ガンディーの足跡を偲んで常に参拝者が絶えません。
    ガンディーの命日や誕生日(10月2日)などには記念の催しが行われます。

    ジャマー・マスジット

    ジャマー・マスジット

    ジャマー・マスジットではイスラムの休日にあたる金曜日にイマーム(導師)が説教を行う集団礼拝が行われます。ジャマー・マスジットとは街の中枢のモスクに与えられる名です。
    ここは1656年にシャー・ジャハーバードによっての本寺として建設され、インド最大の規模を誇ります。

    インド門

    インド門

    コンノート・プレイスの東南2.5kmにある高さ42mのインド門は、第一次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊碑です。
    インドは戦後の独立条件にイギリスに協力して参戦しましたが、大きな犠牲と引き換えの独立は実現しませんでした。
    壁面には戦没者1万3500人の名前が刻まれています。

    フマユーン廟

    フマユーン廟

    ムガル帝国第2皇帝のフマユーン廟は、その妃が1565年に建造しました。
    庭園の中に廟を置く形式。
    後にこの影響を受けて建てられたのが世界遺産のタージ・マハルです。

    クトゥブ・ミーナール

    クトゥブ・ミーナール

    ニューデリーの南郊外約15kmに位置。
    直径14.5mで5層のうち3層は赤砂岩、その上は大理石と砂岩で築かれた、高さ72.5mの棟があります。
    奴隷王朝Salve Dynastyのスルタン、クトゥブッディーン・アイバクがヒンドゥー教徒に対する勝利を記念した建物。
    その後、後継者が増築し、現在の形となりました。
    モスクでの礼拝を呼びかけるためにも使われています。
    以前は100mの高さがあったこともありましたが、飛行機事故で現在の高になっています。

  • インド 世界遺産

    インド 世界遺産

    インド 世界遺産

    ラジャスタンの丘陵城塞群 (2013年)

    ラジャスタン州:丘陵城
    インド北西部にインド最大の面積をもつ州であるラジャスタン州があります。 州都は風の宮殿で有名なジャイプールです。
    この州には各地に城や宮殿がたくさん残っています。
    このたび、世界遺産に登録された6つの城塞はアンベール城(左の写真)、チットールガル城、ランタンポール城 ガグロン城、ジャイサルメール城、クンバルガール城です。

    アジャンタ石窟群(1983年)

    マハーラーシュトラ州:デカン高原西北部
    褐色のワーゴラー川の湾曲に沿って、幅約600mに渡り、断崖を穿って建てられたインド最古の仏教石窟院が並んでいます。未完成石窟を含め29窟。
    1819年イギリスの騎兵隊の士官に偶然発見され、千年余りの時を超えていまも見事な姿を見ることができます。6世紀に造られた第一石窟の持蓮花菩薩の壁画などをはじめ見事な壁画などが多く残されています。優雅で美術的価値も高く、インドでも第一級の仏教石窟寺院として認められています。

    エローラ石窟群(1983年)

    マハーラーシュトラ州:デカン高原西北部
    デカン高原に信仰のエネルギーを今に伝える、のみと槌で掘り出した寺院群のあるエローラ石窟寺院群。
    自然の岩山を掘りぬいて作り上げた石窟群のスケールは見る者を圧倒します。34窟。6世紀から10世紀頃までの建造。一つの岩から掘り出された建造物としては、世界最大の寺院堂塔です。仏教、ヒンディー教、ジャイナ教の石窟寺院があります。古代インドが長い歳月をかけて掘り出した石堀芸術の最高傑作とされています。

    アグラ城(1983年)

    ウッタルプラデーシュ州:アグラ
    16~19世紀にかけてのインドを支配したムガール帝国の象徴ともいえる城壁です。第三皇帝アクバル大帝により築城がはじめられ、第五代皇帝シャージャハーンなどによって続けられ、18世紀初頭にまで及び、宮殿、モスク、居住区などを備えた見事な城塞となっています。高さ20mの赤砂岩の城壁のなかは白大理石などで造られた宮殿などが並びその美術的価値も驚異に値します。晩年、幽閉されたシャージャハーンがタージマハールを眺め続け、息を引き取った場所としても有名です。

    タージマハル(1983年)

    ウッタルプラデーシュ州:アグラ
    ムガール帝国第五代皇帝シャージャハーンの最愛の妃ムムスターズの霊廟。1630年から22年間の歳月をかけて、インドの良質な白大理石と各地から集めた貴石・宝石を散りばめて造られたイスラム建築の宝とも呼ばれる世界的に有名な世界遺産。その敷地や背景も含めて完全な左右対称形になっています。白大理石をベースにさまざまな宝石など造られた花束や花輪の象嵌や装飾の美しさももとより、その全体的な優美な姿がひときわ際立っています。高さは58m。さまざまな角度から見ると変化にとんだ表情をうかがうことができます。

    コナーラクの太陽寺院(1984年)

    オリッサ州:コナーラク
    太陽神スーリヤを祀るヒンディー教の寺院遺跡です。13世紀中ごろに東ガンガー王朝のナラスィンハ・デーヴァ一世の時代に建設されました。寺院の基壇の両側面には12個ずつの車輪が彫られていて、寺院そのものを山車にみたてて前殿の前の7頭の馬が引くという太陽神の館である設計になっています。基壇上には本殿や拝殿があったと思われますが崩れ落ちています。車輪や基壇の側面には男女神像やミトゥナ像、装飾彫刻が細かく施されております。

    マハバリプラムの建造物群(1984年)

    タミールナ-ドゥ州:北東部
    ベンガル湾の海岸近くに4世紀から9世紀にかけてパッラヴァ王朝が残した岩と石の芸術の建造物群です。
    当時、貿易港として栄えたマハバリプラムは花崗岩の大地が広がっていました。そこに歴代の王たちが天然の岩を掘り出した岩石寺院や石窟寺院、巨大な岩に神話の世界を掘った石堀彫刻などが残っています。海岸にはラシンハ・ヴァルマン二世王が築いた海外寺院にはベンガル湾の波しぶきがかかっています。神話の世界を掘った世界最大級の浮彫や、石の崖の上に留まり、いまにも落ちそうで落ちないクリシュナのバターボールなども見どころです。

    ゴアの教会群と修道院群(1986年)

    ゴア州:ゴア
    16世紀にポルトガル領時代に「黄金のゴア」と呼ばれ栄えた都市の往時の面影を残すキリスト教の建築群です。1498年バスコダガマが来航して以来、およそ一世紀にわたってゴアを占領。母国の首都を模した「リトル・リスボン」を築こうと、絶頂期には副王宮や数多くの教会が美しさを競い建てられました。その後、幾多の戦禍などにより衰退しましたが、いまもオールドゴア地区には当時の建造物などが残っています。聖フランシスコザビエル修道院には絵画が展示され。ボム・ジェス教会にはフランシスコ・ザビエルの遺体が納められ安置されています。

    カジュラホの建造物群(1986年)

    マディヤ・プラージュ州:カジュラホ
    10世紀から13世紀にかけて中部インド一帯に強大な勢力を持ったチャンデラ王朝の聖都が置かれていたカジュラホ。最盛期には85もの寺院がありましたが現在は22寺院となっています。その場所から東部、西部、南部寺院群に分けることができます。その建造物には数多くのミトゥナ(男女交合)像や男女神像などが数多く彫られています。インドの聖典「カーマスートラ」の世界ともいえ、そのエネルギーに圧倒されるような感じがします。

    ハンピの建造物群(1986年)

    カルナータカ州:ハンピ
    中世、北インドがイスラム勢力の下に置かれた時代に、南インドでヒンディー教が結束してヴィジャナガル王国が誕生し、ハンピがその王都となりました。14世紀中ごろ初代ハイハラー一世王により王都が築かれ始め、以後引き継がれ、七重の城壁に囲まれた堅固な王都となっていきました。その後、イスラム勢力に破壊されましたが、1981年に20の寺院群と王宮跡が修復、復元されています。一番内側の城壁跡はいまもよく残っています。

    ファティプールシクリ(1986年)

    ウッタル・プラディーシュ州:ファティプールシクリ
    アグラ西郊の岩山、アラバリの丘に残る周囲11㎞の廃都。1574年、聖者の予言からムガール帝国第三代皇帝アクバル大帝が男子が授かり、それを記念して遷都された都です。正門の先に造幣局や一般謁見場があります。その後ろに宮殿さらに奥に数多くの妃などがすむ後宮が建てられました。しかし、水不足や猛暑などの理由からわずか十余年で廃都となってしまった王都。現在も傷んだところも少なくそのままの姿が残っています。

    パッタダカルの建造物群(1987年)

    カルナータカ州:パッタダカル
    7世紀から8世紀にかけての9つのヒンディー教の寺院と数多くの祠があります。デカン地方を治めたチャールキア王朝が築いたヒンディー教の寺院都市。北から南へほぼ年代的に並んでいます。ヴィルパークシャ寺院はヴィクラマーマディヤ二世王の戦勝記念に王妃の命で建てられたもので、ひときわ大きく目を奪います。シカラと呼ばれる聖堂の屋根の部分が特徴的です。先端を上に向けた砲弾型やピラミッド型などを見ることができます。

    エレファンタ石窟群(1987年)

    マハーラーシュトラ州:ムンバイ湾沖
    ムンバイ湾の東海上10㎞に浮かぶ緑の小島エレファンタ島。5世紀中ごろから8世紀にかけて彫られたヒンディー教の石窟遺跡があります。7石窟。完成度が高く保存状態が良いのは第一石窟でシヴァ神やその神話などの彫像がみられます。美しく華麗な浮彫は古代ヒンディー教の石窟彫刻の傑作といわれムンバイ一の観光名所としても有名です。

    ブリハディーシュヴァラ寺院(大チョーラ朝寺院群)(1987年)

    タミールナードゥ州:タンジャーバール
    中世の南インドを支配したチョーラ王朝はその支配力を誇示するために長大な尖塔をもった南インド型のヒンディー教寺院を建設していました。10世紀から11世紀にかけてラージャラージャ一世とその息子によって新王都タンジャバールに造ったのが、南インド最大級の本殿があるブリハディーシュヴァラ寺院です。ゴプラと呼ばれる彫刻のある寺門を二つくぐった先に寺院がある広大な寺院です。シヴァ神をはじめたくさんの彫刻像も最大級です。

    サンチーの仏教建造物群(1989年)

    マッディヤ・プラデーシュ州:サンチー
    ブッダが一度も訪れたことがないにもかかわらず、仏教に篤く帰依したアショカ王がストゥーパを造るなど仏教史上では重要な場所とされています。美しい小高い丘の上に有名な3つのストゥーパがあります。大塔(第一ストゥーパ)はアショカ王の創建で前2世紀に拡大されました。前1世紀に建てられた四方の塔門(トナーラ)には精緻な彫刻が施されています。当時の彫刻は抽象的に描かれており、たとえばブッダの生誕は母のマヤ妃が蓮の花の上に立つか座る姿で、悟りはその下で瞑想した菩提樹、法を説くのは法輪、そして入寂はストゥーパによって表わされています。

    フマユーン廟(1993年)

    デリー
    ムガール帝国が最初に建造した故郷のペルシャの建築様式の影響を持つ霊廟で、後のアグラなどで高度に洗礼されたムガール建築として開花したものの原型となったといわれています。初代皇帝は父方がティムール王家、母方がチンギスハーンの子孫といわれるザーヒルッディン・バーブルで、その息子が第二代皇帝フマユーン。波乱の生涯をおくった皇帝の死後、妃が建立した霊廟です。白大理石と赤砂岩で造られた秀麗な霊廟には妃のほか何人もの貴人の墓も納められています。

    クトゥブ・ミナールとその建造物群(1993年)

    デリー
    11世紀頃からイスラム勢力のインド侵入が本格化しいくつかの王朝が成立しました。13世紀の初頭クトゥブッティーン・アイバクがデリーの南郊に壮大な王宮を築きました。そこに建てられたのがモスクとクトゥブ・ミナールとよばれる尖塔をはじめとするイスラム教寺院の建造物群です。尖塔の高さは72.5mに及びます。外壁には聖典コウーランの文字が刻まれています。以前は内部のらせん状の階段にてバルコニーに出られるようになっていましたが現在は立ち入り禁止となっています。

    ダージリン・ヒマラヤ鉄道(インドの山岳鉄道群)(1999年)

    西ベンガル州
    現役のインド国内を走っている数少ない山岳鉄道の一つです。ミニSL小さな機関車です。ダージリンとシリグリ近くのニュージャルパイグル駅を往復しています。緑の木立を抜け、鮮やかな茶畑を塗って登っていくミニSLには多くの鉄道ファンがいます。ハイシーズンには鉄道ファンのための遊覧運転もあります。
    *2005年にニルギリ山岳鉄道、2008年にカールカー・シムラー鉄道が拡大登録されています。残るマーテラーン丘陵鉄道も拡大登録暫定リストに入っています。

    ブッダガヤの大菩提寺(2002年)

    ビハール州:ブッダガヤ
    ブッダが菩提樹の下で禅定を修められ、成道された地であるブッダガヤは仏教におけるもっとも重要な聖地となっています。その菩提樹と台座(金剛宝座)が祀られているのが大菩提(マハボディ)寺です。前3世紀にアショカ王により最初の祠堂が建てられました。現在の形となったのは4世紀以降です。東側の入り口から入ると西壁を背にした仏像があります。覚りの状態を示し、右手の人差し指を床につけていらっしゃいます。大塔の周りの欄楯柱は最も古く前1~2世紀頃のものがあり、近くの考古博物館にも展示されています。大菩提樹の東には尼蓮禅河が流れています。対岸の前正覚山の山中で苦行されたとも伝えられています。日本をはじめ各国の寺院が周りに建てられています。

    ビンベットカのロック・シェルター群(2003年)

    マッディヤ・プラデーシュ州:ビンベットカ
    ボパールから約50㎞のところにある岩窟住居跡です。最古の壁画は後期旧石器時代といわれ大型動物などを描いたものが多く、最古のものは約1万2千年前のものといわれ、古代から中世まで続いています。天然の赤と白の顔料が使われており現在でも鮮やかな色彩を残しています。ひとつの壁画に複数の時代の人々が絵を描いているものもあります。ゾウやサイ、トラなどの動物から狩りの様子、宗教的な儀式、生活習慣の儀式の様子などさまざまな壁画が描かれています。

    チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス(ヴィクトリア・ターミナス)(2004年)

    マハラーシュトラ州:ムンバイ
    1887年に大インド半島鉄道会社の本部として造られました。ゴシック様式の壮麗なターミナル駅です。屋根のライオンの彫刻をはじめ、駅というよりは壮大な宮殿かヨーロッパの大聖堂のような趣があります。

     チャンパネール&パヴァガル(2004年)

    グラジャート州:チャンパネール&パヴァガル
      8世紀ごろ、チャウハーン王朝ラージプート王国の都としてチャンパーネルは築かれました。壮麗なモスクが数多く残っています。1513年建造のジャーママスジットはその規模と優美さでひときわ目をひきます。背後にある岩山パヴァガルには城の遺跡が三段の形をとり、そびえています。 

    レッド・フォート(2007年)

    デリー
    ムガール帝国第五代皇帝シャージャハーンによって築かれた壮大な砦です。別名ラール・キラー(赤の砦)とも呼ばれ、城壁と門が赤砂岩でできています。当時の正式名称はシャージャパーナバードでした。西のラホール門、南のデリー門の屋上にはチャトリ(小停)があり、インドらしい風景となっています。ディワニ・アーム(公謁殿)などの宮殿は平屋でありムガール様式が用いられています。モティ・マスジド(真珠モスク)はシャージャハーンの宮廷礼拝堂として使用された総白大理石のバロック様式建築となっています。

     カジランカ国立公園(1985年)

    アッサム州:中部
     インドサイ最後の繁殖地のひとつで、インド第二の大河ブラフマプート川のほとりに位置します。一つの角をもつインドサイはかつてインド亜大陸全域に生息していましたが、環境変化と密猟などにより、現在は地球上に2000頭ほどしかいません。そのうちの1200頭ほどがここに生息しています。インドゾウ、トラ、野生スイギュウ、ペリカンなどの野鳥も多く生息しています。

    マナス野生生物保護区(1985年)

    アッサム州:北部
     絶滅危惧種の多く生息するヒマヤラ山脈のふもとに広がる熱帯雨林の保護区です。トラ、インドサイ、インドゾウ、ガウル(インド・バッファロー)、野生スイギュウ、ゴールデン・ラングール(サルの一種)、コビトイノシシ、インドオオサイチョウなど貴重な動物の最後の楽園です。

    ケオラデオ国立公園(1985年)

    ラジャスタン州:東部
     かつてはマハラジャ(藩王)の狩猟場でした。東西3km南北10㎞の小さな国立公園ですが、敷地のおよそ90%が沼や湿地帯であるため野鳥たちの楽園となっています。シベリア、中国などからの渡り鳥も含め、絶滅の危機に瀕している、ソデグロツルなどの中継地点ともなっています。バードウォッチングなどを楽しむことができます。

    スンダルバンス国立公園(1987年)

    西ベンガル州:南部
     ベンガワル湾に臨むガンジス川とブラフマプート川の河口に広がる世界でも有数のデルタ地帯にあります。  世界最大のマングローブ林が自然豊かに広がっています。ベンガルトラ、シカ、野鳥、魚類、ワニなどが生息しています。250頭あまりのトラがおり、世界最大の生息地になっています。またマングローブ林地帯にトラがいるのはここだけです。見学は船の上か3か所の観察塔からのみできます。

    ナンデ・デヴィ国立公園(1988年)

    ウッタランチャル州:北部
     ヒマラヤ山系の生態系があり、広大な敷地面積を誇り、高山森林帯、灌木地帯などもあり氷河もみることができる国立公園。ジャコウジカやユキヒョウなど絶滅危惧種も生息しています。ヒマラヤ山系をはじめ素晴らしい景観と貴重な動植物が生息していますが、自然破壊がすすみ、現在は立ち入り禁止区域となっています。

  • インド仏跡 地図と解説

    インド仏跡 地図と解説

    インド仏跡 地図と解説

    仏教聖地 巡礼の旅 釈尊をお慕いして

    1500年の長きにわたり、現在まで日本人の宗教と文化の精神の中核を担ってきた仏教。
    その開祖である釈尊(一説に紀元前463年-紀元前383年)がお生まれになり、悟りを開かれ、法を説かれ、入滅された地インド。
    古くは「天竺」とよばれ憧れの地であった遠い国。現在では国際線でわずか9時間あまりの旅。
    釈尊をお慕いして、その足跡を残す数々の巡礼の地には、世界各国から多くの巡礼者が訪れています。

    ≪釈尊の誕生≫
    ルンビニ(生誕の地)=ネパール=

    紀元前463年、約2500年前、現在のネパール・ルンビニ、ヒマラヤの南の麓付近、ローヒニー川の辺りで、シャカ族スッドータナ王(浄飯王)の待望の長子として誕生されました。
    王都はネパール国境付近のカピヴァラストゥにありました。

    ※王妃マヤ。マヤ夫人はある夜、蓮の花を捧げ持った白い象が湖で沐浴をしている自分の右脇腹から胎内に入る夢を見ます。 そして懐妊。出産が近づき、実家へ戻る途中、休息のために立ち寄ったルンビニ園で、美しく咲き誇る樹木の枝に手を伸ばされたとき、右脇腹から釈尊が誕生されたといわれています。

    天地は歓喜に震えこれを祝い、シッダルタ(目的を成就したという意味)と名付けられ、後に釈尊(ブッダ)となられました。生まれた直後、直立であるき「天上天下唯我独尊」と言われたと言い伝えられています。

    ●ルンビニ(生誕の地)=ネパール=
    釈尊の誕生を祝い現わしている壁彫刻のあるマヤ夫人堂、釈尊が産湯を使われたという産湯の地が残っています。
    また釈尊に帰依し、擁護していたアショカ王が建てたアショカ王柱には“ルンビニ村は釈尊の生誕の地であるために、租税を免除し、生産物の8分の1を納めるものとする”と刻まれています。

    ≪出家と成道≫

    カピバラストゥ(幼少期を過ごされた地):シャカ族の首都
    ブッダガヤ(成道の地)

    シャカ族の長子として誕生し、母マヤ夫人を誕生7日目にして失い、母の妹のマハー・パジャーパティの手で育まれました。父の庇護のもと、季節にあわせて3つの宮殿で過ごし、ベナレス産の美しい衣をまとっていたといわれています。長じて結婚されラーフラという息子ももうけられました。

    ※後世の伝説ではシッダルタ王子が14歳の時に、東の城門を出ると老人を、南の城門をでると病人を、西の城門をでると屍を、そしてその帰りに出家修行者を見た(四門出遊)と説かれています。

    人生の悲しみ、惨めさ、痛みと死を目の当たりにしたシッダルタ王子は、恵まれた生活や家庭、家族をもなげうって29歳でカピバラストゥを出家され、真の幸福と無情の知恵を求め、師を探し求め、当時の新興国であったマガダ国の中心部ラージギールに赴きました。静安な境地を求め、高名な修行僧に教えを乞うべく、アーラーラ仙人を、ウッダカ仙人を訪ね、ともに修行をされました。しかし、いずれの師からも求めるものは得ることができず、またブッダガヤ近郊にて6年にも及ぶ苦行も実りませんでした。釈尊を師と仰いで行を共にしていた5人の僧も、行についての食い違いから、釈尊のもとから離れてしまいました。釈迦尊は苦行を中止され、近くのナイランジャナ河(尼蓮禅河)で沐浴し、植物を摂ってブッダガヤ(ウルヴェーラ村)の菩提樹の下で禅定にはいられ、まもなく無上の悟りを開かれ、ブッダ(覚者)となられたのです。

    ●カピバラストゥ(幼少期を過ごされた地):シャカ族の首都
    現在カピバラストゥの地は最終的に特定されておらず、2つの候補地があります。
    ネパール側のカピバラストゥ候補はティラコート。
    インド側のカピバラストゥ候補はピプラワーです。ピプラワーのストゥーパから、1898年に銘文入りの舎利壺が発見されました。近年、さらに古い年代の舎利壺とシーリングが発掘されています。約1.5㎞南のガンワリア遺跡が王宮跡ではないかとみられています。ルンビニはここからほぼ東へ14㎞のところにあります。

    釈尊はシャカ一族の都で最も古い共和国のあったカピバラストゥで、裕福な少年時代を過ごしました。ここで釈尊は悲しみや痛みや病、死を目の当たりにされました。そして、すべての苦悩を克服し、幸福に燦然と輝くサドゥー(修行僧・聖者)を見たとき、恵まれた富や快楽、家族をすべて投げうって、真理を求める救いへの道へ旅立つ決心をされました。そして29歳のときに、父の制止を振り切り、妻子を残して求道の出家をされました。

    カピバラストゥにはいつくかの仏塔(ストゥーパ)が残されており、釈尊の物であると思われる遺物が納められた石造りの棺などがいくつか発掘されています。

    ●ブッダガヤ(成道の地)

    ◎釈尊が菩提樹(アシュヴァッタ樹、悟り=ボーディ=を開かれたのがこのアシュヴァッタ樹の下であったので後に菩提樹と呼ばれるようになる)の下で禅定を修せられ、成道された地。仏教における最も重要な聖地です。その菩提樹と台座(金剛宝座)を祀るのが大菩提(マハボディ)寺です。
    紀元前3世紀のアショカ王の頃に最初の祠堂が建てられ、現在の形となったのは4世紀以降です。

    ◎東側の入り口から入ると西壁を背にした仏像があります。覚りの状態を示し、右手の人差し指を床につけていらっしゃいます。大塔の周りの欄楯柱は最も古く前1~2世紀頃のものがあり、近くの考古博物館にも展示されています。

    大菩提(マハボディ)寺はたくさんの異なった文化が造り出した建築様式の融合体ともいえます。拝殿はグプタ朝時代とその後の時代の建築の特徴を備え、寺院の壁には様々な様相をされた釈尊が彫られています。7世紀と10世紀にスリランカ、中国、ミャンマーからここを訪れた巡礼者の記録を刻んだ銘が残されています。7世紀には旅僧・玄奘三蔵法師もここを訪れています。

    現在そびえている菩提樹(ピッパルの木)は、ついに悟りを開かれたときに達したときに座っていた菩提樹の子孫だといわれています。
    また大菩提(マハボディ)寺の横には「宝石の歩道」と呼ばれ釈尊が深い考え事をするときに歩いたといわれるチャウクラマーナ(19個の蓮華が彫られた教行石の道)があります。悟りの境地に達せられた釈尊がその境地を人々に伝えるかどうかを迷われ、歩かれたその足跡に蓮華の花が咲いたという言い伝えを現しています。
    大菩提樹の東には尼蓮禅河が流れています。対岸の前正覚山の山中で苦行されたとも伝えられています。日本をはじめ各国の寺院が周りに建てられています。

    ※大菩提(マハボディ)寺に隣接するシャイヴィーテ僧院には4つの寺院があり、周辺にはいくつかの記念石(サマディーズ)があります。僧院の向かいには僧侶の住居施設が多く並んでいます。近くのジャガンナート寺院はシヴァ神の寺院で黒石の石像が祀られています。考古学博物館には紀元前1世紀から後11世紀までの仏教彫刻が展示されています。複数のことなった様式の仏教美術は芸術表現の宝物殿といった感があります。

    ●ガヤ
    ブッダガヤから12㎞のパルグ川の川岸にあるヒンディー教の聖地でもあり、プレトシラとラムシラの山々に挟まれています。ガヤには多くの仏教寺院が存在します。

    ※ナイランジャナ河(尼蓮禅河)の対岸にはスジャータの村セーナーがあります。厳しい苦行により衰弱し、疲れ果て、空腹の釈尊が木陰で休んでいる時、村娘スジャータが食べ物を勧めました。釈尊はこの一杯の乳粥の供養の申し出を受け入れたのです。言い伝えによると、食べ物を口にした釈尊の表情は神がかりてきな光と輝きを帯び、このとき「大切なのは極度の自己放縦でも苦行でもなく、中道をとることである」という至高の真理を悟られたと言われています。この出来事のシンボルとしてスジャータ・スターン(ドゥルゲシュワリ寺院)はいまもこの地にあり、当時を偲ばせる佇まいがあります。
    その後、尼蓮禅河を渡り、菩提樹の下で7日間の瞑想の末、“成道”の境地まで達せられました。35歳のときのことと言われています。

    ≪説法≫

    サルナート(初転法輪の地):ベナレス近郊 鹿野苑
    ラージギール(常設説法の地):マガダ国の首都 霊鷲山や竹林精舎のあった王舎城(ラージギール)
    ナーランダ:古代インドの仏教大学跡
    サラバスティ(常住の地):コーサラ国の首都 祇園精舎(サヘット)のあった舎衛城(サラバスティ・マヘット)
    ヴァイシャリ(猿王奉密の地):リッチャヴィ族の首都
    カウシャンビー(悟りから6・9年目に訪れた地):ヴァツァ国の首都 ゴーシタ園などがあった

    ※言い伝えでは、釈尊は最初に法を説く相手として、かつての師、アーラーラ仙人とウッダカ仙人をお考えになられましたが、すでに他界していると神に告げられ、ブッダガヤでともに修行に励んだ5人の僧を訪ねてサルナートへ向かわれたといわれています。

    ベナレスは当時から歴史の古い都で、聖地として広く知られ、さまざまな出家修行者の集まる最大の場所でした。郊外のサルナートは仙人達の集うところとなっていました。
    その北郊(鹿野苑)サルナートで、釈尊は無上の法を始めてお説きになりました。これが初転法輪で、仏教教団の始まりとなります。
    以降45年間、釈尊は王舎城、舎衛城など各地で多くの人々に自ら悟った真理の法を説かれました。弟子たちに終わりなく繰り返される生と再生の苦悩に終止符を打つべく、八正道に従うようにと説かれました。

    ●サルナート(初転法輪の地):ベナレス近郊 鹿野苑

    ◎ブッダガヤで悟りを開かれた釈尊はその真理を人々に伝えるためサルナートへ向かわれました。
    聖地ベナレスから約10㎞にあるサルナートは、初転法輪の地といわれ、仏教教団の発祥を記念する重要な聖地です。
    以前釈尊に師事していた5人の高弟たちは、彼らを説得し、初転法輪(ダーラマチャクラ・プラヴァルタン)と呼ばれる初めての説法をする釈尊の魅力あふれる輝いた表情に驚かされます。これが仏教の偉大な伝統“サンガ(僧)”の始まりと言われています。
    この時説いた法はブッダガヤでの悟りの内容とほぼ同じであったといわれ、後に教理体系として整理して記された教典では、それを中道・四種の真理・八正道にまとめられています。

    ※中道とは欲楽に耽る極端にも、苦行をして自分を苦しめる極端にも近付かないこと。四種の真理とは、生・老・病・死は苦(第一)であり、いろいろな欲楽を求める妄執が苦を起こさせる原因であり(第二)、その妄執を完全に止滅すれば苦しみを
    止滅でき(第三)、苦しみを止滅するには、八正道、正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想を実践すること(第四)というものだとされています。

    釈尊と5人の高弟たちは、ベナレスの長者の子ヤスとその友人54人とともに最初のサンガを形成されました。

    ※ヤスは多くの侍女にかしずかれ歓楽の生活を送っていましたが、あるとき嫌気がさし、サルナートへ向かう途中、釈尊と出会われます。説法をきいて出家したヤス連れ戻しにきたヤスの両親と妻もまた信者となり、ヤスの友人で長者の子4人と良家の子50人もヤスにならって出家されました。

    有名なマントラ(真言)に最初にある“ブッダム・シャルナム・ガッチャーミ(仏に帰依し奉る)”という言葉は、サルナートを端緒としています。「仏(ブッダ)に帰依し、法(ブッダの教え)に帰依し、僧(サンガ)に帰依する」と書き記された三宝は、現在も変わらずにサルナートにあります。

    サルナートには静謐で美しい遺跡公園と博物館があります。アショカ王時代から12世紀にいたる数々のストゥーパや僧院跡が点在しています。二重円筒形の巨大なダーマク塔は、6世紀頃に増広されたストゥーパです。
    ダーマク塔は釈尊が座して真理を説かれた場所として伝えられています。周囲36mで、34mの高さがあり台座も入れると42mまで達します。他にもいつくかのストゥーパがあります。
    公園の東側には、スリランカの仏教徒によって建てられたムラガンダ・クティ寺院があります。内部にある野生司香雪画伯の釈尊の一生を描いた仏教画で有名です。
    ここは、釈尊が休息をとったり、瞑想をしたりした場所であるといわれています。玄奘三蔵法師(602年-664年 中国唐時代の訳経僧)も訪れています。

    インドの至宝、初転法輪像、アショカ王柱頭(4頭の獅子の像)を展示する考古学博物館もあります。アショカ王(紀元前273-232年)は、戦いの後、仏教に帰依し、サルナートを訪れました。アショカ王柱が王の来訪記念として建てられ、サルナートの仏教教団の基礎を築かれました。アショカ王柱頭は現在インドの国章となっています。2千年以上もの時を超えたとも思えないほどの光沢を放っています。

    その南880mにはチャウカンディ・ストゥーパ(迎仏塔)があり、かつて苦行をともにした五人の修行者が釈尊を出迎えた場所といわれています。4-6世紀のグプタ朝時代には広く段々になった寺院でしたが、1588年に時の為政者アクバル大帝の父フマユーンの来訪を記念して八角形の塔が建てられました。またアクバル大帝も1555年にチャウカーンディ・ストゥーパを建てています。

    ※サルナートで初の説法をされた釈尊は弟子たちをつれて、ブッダガヤにもどります。ブッダガヤで新たな弟子が釈尊の門に入りました。ガヤ近くのガヤー・シーサ(象頭山)において、ブッダガヤで悟りを開かれた釈尊は、新たに信者となった1000人もの弟子をつれ、「すべては貪欲・嫌悪・迷いの火によって燃えている。貪欲から離れれば解脱できる」と説いて、修行僧たちを煩悩から救ったといわれています。
    その後、ラージギールに向かわれました。

    ●ラージギール(常設説法の地):マガダ国の首都
    霊鷲山や竹林精舎のあった王舎城(ラージギール)

    釈尊在世当時のマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)。現在はラージギールと呼ばれ、五つの山に囲まれた要塞堅固な盆地です。
    東南の面には有名な霊鷲山(グリッダクータ山)があり、頂上には、晩年の釈尊が起居されたという岩窟やたくさんの説法をされたという場所があります。法華経を始め、大無量寿教、観無量寿教など、その教えが初めて書面に記録されたと言われる場所です。
    仏教徒であったマガダ国の国王ビンサーラは晩年、息子のアジャータシャトル王に幽閉し殺害されますがその牢獄跡も残っています。ビンサーラ王はここから霊鷲山に入る釈尊の姿を見たといわれています。

    ※岩山のひとつラトナギリ山(多宝山)には日本山妙法寺がたてたストゥーパがあります。
    岩山のひとつパンダヴァ山(白善山)には釈尊がカピヴァラストゥを出られてから最初に修行を始められたところと言われています。

    旧都の北門付近にはビンサーラ王により寄進され、カランダ長者が釈尊のために建てた、竹林精舎跡(ヴェヌヴァン僧房)があります。サラバスティの祇園精舎(サヘット)と並び、仏教史上初めての寺院としても知られています。
    また、治癒力があるといわれているサプトゥダーラの温泉、釈尊が沐浴されたカランダ池など釈尊ゆかりの遺跡や、釈尊涅槃の後、最初の仏教徒会議(第一結集)の行われた七葉窟(ピッパラ窟)(ヴェバーラ山・負重山にあります)や釈尊の入滅(大涅槃)を描いた彫刻が残るアジャータシャトル王の新王舎城があります。
    旧王舎城内には、釈尊の熱心な弟子であり外科医でもあったシーヴァカの住居があったシーヴァカ果樹園跡、ビンサーラ王の牢獄跡などがあります。

    ※マガダ国の首都ラージギールの竹林精舎で多くの弟子たちとともに修行に励み、法を説かれていた釈尊は故郷のカピバラストゥに一時、帰られます。このとき久方ぶりに父王スッドータナ王(浄飯王)と妻子に出会います。この時、異母兄弟のナンダ、息子のラーフラ、従兄のアーナンダをはじめとするシャカ族500名が出家したといわれ、父と釈尊妃は在家信者として帰依することとなりました。この後、コーサカ国のサラバスティに向かわれます。コーサカ国のパセーナディ王は釈尊と同年齢だったこともあり、友人として親しい間柄となられます。スダッタ長者も釈尊の崇高な姿にうたれ帰依し、祇園精舎を寄進します。以来、マガダ国(ラージギール)とコーサカ国(サラバスティ)をたびたび往来されたといわれています。王族はもちろんのこと、漁師や盗賊たちにまでも法をとき、帰依させていかれました。

    ●ナーランダ:古代インドの仏教大学跡

    ◎釈尊の高弟シャーリプトラ(舎利弗)の生誕の地といわれ、釈尊も何度か訪れたことがあると、ある文献に記されています。
    ナーランダには“蓮を授ける地”という意味があります。
    5世紀に創建されてから12世紀にイスラム教徒に破壊されるまで、全アジアの仏教研究・教学の中心地でした。
    玄奘法師が滞在された7世紀の往時には9百万の書物、1万人の学僧、2千人の導師を擁、ここに居住していたと言われています。
    11の僧院跡と14の寺院跡があります。アショカ王はこの地に僧院を建て、後のハルシュヴァルダン王は26mもの釈尊銅像を寄進し、グプタ王は美術大学を開いたと言われています。
    1951年には国際仏教研究センターが創立され、近郊にはナヴァ・ナーランダ・ヴィハールという仏教研究施設もあります。

    ●サラバスティ(常住の地):コーサラ国の首都 
    祇園精舎のあった舎衛城(サラバスティ) サヘット・マヘット

    ◎神話にでてくるサラヴァスト王によって築かれたと伝えられるサラバスティは古い僧院、寺院などがあります。
    祇園精舎は仏説阿弥陀経が説かれた場所とされ、コーサラ国の都サラバスティ(舎衛城)のスダッタ長者(給狐独長者)がジェータ(祇多)太子の園林(ジェトヴァナ庭園)を買い、釈尊に寄進した精舎です。

    土地の所有者であったジェータ太子は「金貨を敷き詰めた場所だけ譲る」と冗談を言われましたが、スダッタ長者は本当に金貨を敷き詰め始めます。驚いたジェータ太子が訳を聞き、自らも協力をすると申し出され、祇園精舎が出来上がったと言われています。

    ここで釈尊は、35歳で悟りを開かれ80歳で入滅されるまでの間、24回の雨季(雨安居:安居とはそれまで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まって集団で修行すること、またはその期間のことをいいます。)を過ごされ、多くの経・法を説かれました。祇園精舎跡(サヘット)は釈尊が説法されたと伝えられる台座や後の代の多くの僧院跡が残されています。
    その北東約500mのところにある、城壁に囲まれた一帯が舎衛城(サラバスティ)でマヘットと呼ばれています。釈尊の高弟であったアーナンダが植えたもののひとつとされる有名なアーナンダの菩提樹があります。

    ※雨安居入りは暦の上で雨期の始まりの日。釈尊とその弟子たちは、自らの修行と在家者への教えのために、一定の場所にとどまることはありませんでしたが、雨によって川があふれて一面が水浸しとなる雨期に限り、1カ所に定住されました。田畑と道の境が分からなくなって稲、作物、水の中の虫を踏み潰すなどの「業」を犯さないためだと言われています。

    釈尊の入滅後も精舎は拡大されていきました。404年に法顕(337-422年 中国東晋時代の僧侶)が訪れた時には98伽藍があったと伝えられていますが、後の630年に玄奘が訪れた際には荒廃が見られ、さらに後、義浄(635-713年 中国。唐時代の僧侶)が訪れた際には再興されている最中であったとされています。
    アングリマーラの帰依、舎衛城の神変など様々な逸話も残ります。

    ※アングリマーラの帰依:コーサラ国のサラバスティ(舎衛城)の祇園精舎に滞在されていた釈尊は托鉢ででかけられました。その頃、コーサラ国パセーナディ王の領地にアングリラーマという極賊がいました。命を奪い盗賊を働いていました。托鉢に出かけられた釈尊はそのアングリラーマが入っていった道を進みます。釈尊とであったアングリラーマは釈尊から法を説かれ、感激し、釈尊に帰依されます。パセーナディ王は今まさに討伐しようとでかけていたところ釈尊に帰依した侍者としてのアングリラーマと出会い、帰依したのであれば、討伐しない旨をお伝えになられます。アングリラーマは人々から今までの行いの報いを受けますが、瞑想に入られ解脱の安らぎを得られます。

    ●ヴァイシャリ(猿王奉密の地):リッチャヴィ族の首都 
    ヴァイシャリ・パトナ(パータリプトラ)

    ◎紀元前6世紀には選挙によって選ばれた代表達が統治をおこなった世界最初の共和国といわれるヴァイシャリ。
    かつての国会議事堂(ラージャ・ヴィシャル・カ・ガール)も発掘されています。

    釈尊在世当時、ガンダキ河畔にあり商業都市として栄えました。釈尊はしばしばこの地を訪れ、逗留されました。そして、釈尊が現世からの旅立ちが近づいたことを示唆する説法を始めて行われました。後にアショカ王が釈尊の最期の説法を記念し、アショカ王石柱を立てました。その傍らに猿の掘った池(ラーマ・クンド)などをみることができます。

    また、ヴァイシャリでは、釈尊入滅から100年後(紀元前377年)に第2回目の仏教徒会議(第ニ結集)が開催され、ヴィナヤ(律蔵)の10の要点が討議されたと言われています。

    華麗なダンサーでもあり娼婦でもあったアマラパーリはマンゴー園を寄進し、後に釈尊の教えに帰依し尼僧になりました。身分によるわけへだてのなく万人に法を説いた釈尊のお姿がここにあります。釈尊の姿にうたれた猿の群れ(猿王)が釈尊の托鉢にマンゴーの蜜を取り奉げたことなどでも有名な地です。
    旧都城跡やマウリヤ時代以前に起源をもつ、棺に釈尊の遺骨の一部が納められた紀元前4世紀頃のレンガ造りの第一、第二仏舎利塔(ストゥーパ)など発掘されています。

    ※パトナ(古代パータリプトラ):インド史上はじめての統一国家を建設したマウリヤ王朝初代チャンドラ・グプタ王はここに都をおきました。仏教を保護し、徳(ダルマ)による政治を行ったマウリヤ王朝三代目アショカ王(紀元前3世紀)時代には、近隣諸国と友好関係を築きあげ、古代アジアの文化や政治・経済の一大中心として栄えました。
    パトナ市内のアショカ王時代の宮殿跡のクムラハル(鶏園寺)は、大蔵教の基礎となる経・律・論を結集した第三結集(紀元前244年)が開催された地としても知られています。

    ●カウシャンビー(悟りから6・9年目に訪れた地):ヴァツァ国の首都
    釈尊が悟りを開かれてから6年目と9年目に訪れた地と言われ、釈尊はここで数回の説法を行い、仏教修道の中心地に位置付けられていたそうです。ゴーシタ園などがありました。遺跡からは多数の彫刻や像、貨幣などが発見されています。重要な遺物はアラハバード博物館に展示されています。

    ≪入滅≫

    クシナガラ(入滅の地):マッラ族の首都

    釈尊は、侍者アーナンダ一人を伴って王舎城(ラージギール・霊鷲山)から最後の説法の旅に出発されました。
    ナーランダー、パータリ村、ヴァイシャリを経て、その後、クシナガラ近くのパーヴァー村の鍛冶工チュンダのもとで雨期を過ごされたとき、重い病となられましたが、その後も旅を続けられました。おそらく、郷里のカピバラストゥに向っていたのではないかと言われています。しかし、クシナガラ郊外にお着きになられたとき、二本のサーラ樹(沙羅双樹)の間に横たわられ、ついに80歳で涅槃に入られました。
    後世の人々はこれを祀った塔(ストゥーパ)を各地に建てて釈尊を思い偲び敬いました。

    ●クシナガラ(入滅の地):マッラ族の首都

    ◎釈尊が侍者アーナンダにみとられて、沙羅双樹の間に横たわられて入滅されたのがこの地クシナガラです。
    クシナガラに近いパーヴァという村で、鍛冶屋チェンダの家で法を説かれ、供養を受けます。その時出された食事はキノコ料理とも豚肉料理とも言われていますが、食された後、激しい下痢に襲われます。その後も、その痛みに耐えながらクシナガラへ向かわれた釈尊は死期が近いことを悟られます。そしてついに二本の沙羅の樹の間に横たわられました。

    釈尊は「私の友たちよ。よくお聞きなさい。形のあるものは必ず滅すのです。怠ることなく修行に努めなさい。」との言葉を残されました。アーナンダから捧げられた最後の水を飲まれた後、頭を北向きに西を向いて伏せられた釈尊は、この地で生涯を終えられ涅槃に入られました。

    ※釈尊は鍛冶工チェンダが釈尊にキノコ料理を供養したことを悔いて悩んでいるのではないかと気づかわれ、
    嘆き悲しむ高弟アーナンダには最後の法をとかれ、静かに息を引き取られたといわれています。

    これを偲び記念して、「釈尊がこの地で入滅された」という内容が記された銅板が発見された塔跡に、ビルマの仏教徒が涅槃堂を建てられました。涅槃堂の前には二本のサーラの若木が植えられています。涅槃堂の中には、巨大な涅槃像が安置されています。1876年に寺院で発掘されたこの巨大な涅槃像は、5世紀にグプタ王朝時代に仏教徒によりマトゥーラ(アグラの北に位置する都市)から運ばれたものといわれています。他にもグプタ王朝時代などにたてられた僧院跡など多くの遺跡があります。

    その昔、玄奘三蔵法師などもクシナガラを訪れています。そして、その頃には十分な保護を受けていなかったクシナガラの地の記述書が残されました。その記述書は数世紀後の遺跡発掘調査の際の重要な手掛かりとなったといわれています。
    10世紀の釈尊の青岩像を祀ったマタクンワール寺院などがあります。

    釈尊の遺骸はクシナガラから約1㎞東アンガラ・チャイチャというところで荼毘に付され、その遺骨が八等分されたといわれています。現在、荼毘に付された場所にはタマバル塚が残されています。高さ46mの煉瓦積みの仏塔です。
    ヒラニヤヴァティ河はラマバル塚の北西にあり、釈尊が最後の沐浴をされた場所と言われています。

    ≪三道宝階降下の伝承≫

    ●サンカシャ(三道宝階降下の伝承の地)
    ブッダガヤにおいて悟りを開かれた釈尊は、生後7日目に死別した天上界にいらっしゃる母マヤ夫人に無上の法を説かれることを念願されます。
    ある時、祇園精舎(サヘット)を訪れていた釈尊は、祇園精舎の香室より昇天され三十三天(トウリテン)に赴き3ヶ月間、マヤ夫人に法を説かれ、報恩を果たされました。その後、三道の宝階をくだって再び地上界のこの地に降下されたと伝えられています。降下される時、三つの階段が築かれ中央の金の階段を釈尊が通られ、右側の白金の階段をブラフマ神(梵天)が白い払子(ホッス)を手にして降下され、左側の瑠璃の階段をインドラ神(帝釈天)が天蓋を釈尊にかざして、多くの天人たちを従えて降下されたと言われています。

    サンカシャはかつて多くの僧院を持つ都城でした。現在は、アショカ王石柱の柱頭、大ストゥーパ跡などをみることができます。

    ※釈尊の時代からすでに2500年にも及ぶ月日が流れ、仏教に帰依し篤く保護をしたアショカ王の時代からもすでに2200年もの長い年月が経っています。
    その間にインドでも様々な事柄がおこりました。寺院・僧院など仏教の建物は荒廃し、破壊されたものも少なくありません。
    往時を偲ばせる遺跡は建物の柱や遺構などで、出土品や発掘跡の状況と古文献を照合して復元されたものも多くあります。近年になりインドはもとより諸仏教国の協力により遺跡の発掘・研究や調査が進められています。
    いま現在、形としてのこる遺跡だけをみると何もないような印象しか受けられないこともあるかもしれません。長い時をこえて、その豊かな心で見て、感じとるとき、仏跡は多くを語り始めます。釈尊の説かれたことを収めた書を携え、ゆかりの地でひもとかれ、静かに釈尊の言葉に耳をかたむけられ、過ごされてみてはいかがでしょうか。そのとき、遺跡は時空を超え、往時を蘇らせてくれることでしょう。

  • ブッダはどんな人だった?

    ブッダはどんな人だった?

    ブッダはどんな人だった?

    5分間でわかる釈迦尊はどんな人だった?

    釈迦尊の誕生
    関連都市 (ルンビニ・カピラバストゥ:ティラコートとピプラワー)

    釈迦尊は、インド東北部にあったシャカ族の王子としてルンビニ(現在はネパール領)でスッドターナ王とマヤ夫人の間に生まれました。当時の名前はゴーダマ・シッダルタといいました。マヤ夫人は出産後、7日間で亡くなりました。幼い釈迦尊は何不自由なく王となるための教育や武芸を身につけていました。12歳になったころ農作業を見てショックを受けたことがありました。牛の引く鋤に掘り起こされた土の中から出た虫が小鳥に食べられ、その小鳥が大きなタカに襲われるのを目撃したのです。釈迦尊はこの世の弱肉強食の営みを知り、心を痛めたのです。

    人生の辛さを知った釈迦尊
    関連都市 (カピラバストゥ:ティラコートとピプラワー)

    釈迦尊が16歳になったとき結婚し、子供も生まれましたが、幸福な生活は長続きしませんでした。あるとき、都の東門から外に出ると、人からさげすまれ、痩せおとろえた老人の姿を目にし、南門から出ると死を目の前にした病人を見ました。西門に身寄りのない老人が死んでいるのを目の当たりにしたとき、人間が生を受けてから避けることのできない『生、老、病、死』を知った釈迦尊は、人生の根本にある『苦』という思いを深め、どうしたら苦から解放されるのか考え続けました。

    出家する釈迦尊
    関連都市 (カピラバストゥ:ティラコートとピプラワー)

    29歳になったとき、都の北門から出た釈迦尊は、ヒンドゥー教の僧の姿を目にして、ついに出家を決意します。父や妻子を残していくのは大変つらいことでしたが、『人々が苦しみから救われる道を見つけるまでは戻ってこない』と強く決意し、豪華な王の衣服や美しい装飾品を従者にあたえて、ひとり旅立ちました。

    6年間のきびしい苦行
    関連都市 (ラージギール・ヴァイシャリ)

    釈迦尊は、『生老病死』という人生の苦しみを知り、父や妻子との優雅な生活を捨て、カピラバストゥ国を出て出家者となりました。釈迦尊は、ぼろ布をまとってインド東北部の各地へ旅を続け、托鉢の毎日を送りました。ガンジス河流域で有名だったヒンドゥー教のインド最大の国、マガダ国(現ラージギール)で数百人の弟子を持つアーラーラ仙人、ウッダカ仙人のもとで修行に励みました。

    しかし、釈迦尊は、その教えや修行に満足できず、そこで5人の修行者とともに静かな山林にこもり、苦行を始めました。

    苦行は長期間におよぶ断食が中心でした。三週間が限度とされていた断食を2か月も続けたこともありました。苦行中、何度も悪魔(誘惑など)が近づき嘲笑い、『無駄だからやめたほうがいい』という囁きに対してそれを退けましたが、いくら苦行を6年間徹底的に続けても悟りを開くことはできませんでした。その結果、ついに釈迦尊は苦行をやめたのです。『極端な苦行はかえって精神や肉体を駄目にして真理から遠ざかるのではないか』と考えたのです。

    菩提樹の下で悟る
    関連都市 (ブッダガヤ)

    山林を出た釈迦尊は、付近を流れるナイランジャナ河にて沐浴をしていたのですが、激しい苦行により体が弱っていたため、岸辺で倒れてしまいます。このとき、付近の村のスジャータという娘が釈迦尊を助け、ミルク粥を捧げました。釈迦尊は、それを食べて体力を回復させました。その後、河辺りの菩提樹の下で座禅を組み、目を閉じて雑念をはらい瞑想に入りました。このとき、また悪魔が俗世間の欲望などによって釈迦尊を誘惑します。しかし、釈迦尊は、この欲望は自分の心の中にあるものだと気付きます。瞑想に入って8日目、悪魔に打ち勝った釈迦尊の心から人間の苦しみや迷いが消えていました。釈迦尊は、覚者『ブッダ』(真理に目覚めた人)となり、悟りを開いたのです。このとき35歳でした。現在この地は『ブッダガヤ』と呼ばれ、仏教の聖地となっています。

    初めての説法
    関連都市 (カピラバストゥ:ティラコートとピプラワー)

    苦行の果てに苦行の無益さを知った釈迦尊は、苦行をやめて、菩提樹の下で悟りを開きました。人間の苦しみの原因と苦しみからの解放を知った釈迦尊はその後、21日間の座禅と瞑想を続けました。その瞑想により宇宙の最高の真理を悟った喜びを繰り返し味わい、確かなものにするためでした。こうして悟った釈迦尊は、その真理を人々に伝えるべきか考えました。悟りの道は深く遠く、人々が簡単に理解できるものではなかったからです。しかし、慈悲の心をもって苦に満ちた人々を救う道を選び、ガンジス河のほとりにあるヒンドゥー教の聖地ベナレスに向かいました。ベナレス郊外のサルナートにはかつてともに苦行をした5人の修行僧が住んでいました。釈迦尊は彼らに向かい、初めての説法を行いました。修行僧たちは苦行をやめた釈迦尊を冷ややかに見ていました。しかし、釈迦尊の説法により、釈迦尊の説く宇宙の真理を聞いて驚きました。そうして説法が終わると釈迦尊の弟子となりました。この最初の説法は『初転法輪』と呼ばれています。

    布教の旅
    関連都市 (ラージギール・ヴァイシャリ・ナーランダ・サラバシティ・サンカシア)

    サルナートの説法から始めた釈迦尊は、インド東北部の各地に赴き、身分や性別、善人悪人の区別なく悟りで得た真理を説き続けました。釈迦尊の説く教えは新興宗教とみなされ、ヒンドゥー教の修行者と論争になることもありましたが負けることはありませんでした。インド東北部のマガダ国(現ラージギール)の王ビンビサーラは釈迦尊の人柄にほれこみ、還俗(俗人)に戻るとしたら、マガダ国の半分を譲ると申し出ました。

    しかし釈迦尊は『自分が出家したのは欲望を叶えるためではない。欲望は決して満たされることはありません』といって断わりました。釈迦尊の言葉に深くうたれたビンビサーラ王は弟子となり瞑想の場として竹林精舎を寄進しました。同じようにコーサラ国(サラバスティ)のスダッタ長者は祇園精舎を寄進しました。祇園精舎には弟子による教団ができ、老若男女あらゆる階層の人々が訪れ、信者となりました。

    釈迦尊の晩年と入滅(涅槃)
    関連都市 (クシナガル)

    釈迦尊は、35歳から説法を始めてから45年間布教を続け、多くの弟子と信者を得ました。やがて80歳になり死期の近いことを悟った釈迦尊は弟子のアーナンダを伴い故郷のカピラバストゥに向かい旅立ちました。しかし、旅途中のクシナガルで信者より出された食事(キノコ料理?!)にあたり病に倒れてしまいます。釈迦尊は、非難することなくその信者に感謝の気持ちを示したといいます。釈迦尊は二本のサーラ樹(沙羅双樹)の間に横たわり、アーナンダに最後の説法をし、『形あるものは必ず滅すのです。自分自身と真理の教えである仏法をたよりに怠ることなく修行につとめ、生きなさい』といい、アーナンダから捧げられた最後の水を飲まれた後、頭を北向きに西を向いて伏せられ、釈迦尊は静かに入滅(涅槃)に入られました。その時、沙羅双樹が白い花を満開に咲かせたといいます。